九鬼周造 『いきの構造』

九鬼周造 著 あきら 現代語訳・注解

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九鬼周造 『いきの構造』

あきら訳 ― 現代を生きる私たちのために


この書は、かつて雑誌『思想』第九十二号および第九十三号(昭和五年一月号および二月号)に掲載された論文に加筆・修正を加えたものです。

生きた哲学とは、ただ頭で考えるだけのものではなく、私たちが今、この現実をちゃんと理解し、心で味わうことのできるものでなければならないと思います。

私たちは皆、「いき」という言葉をどこかで聞いたことがあるはずです。
なんとなく洗練されていて、なんとなく色気があり、心に残る特別な響きを持っています。

では、この「いき」とは、実際にどのような構造を持っているのでしょうか。

結局のところ、「いき」とは、私たち日本人にとって、とても深く根ざした一つの生き方一つの感じ方ではないでしょうか。

現実をありのままに受け止め、静かに味わうこと。
そしてその味わいを、言葉にして丁寧に伝えること――
それが、この書が私たちに問いかけていることだと、私は感じます。

昭和五年十月

九鬼周造


一 序説 ― 「いき」とは何か、私たちはどう向き合うべきか

「いき」という現象は、どのような構造を持っているのでしょうか。

まず大切なのは、私たちがどのような心の姿勢でこの「いき」に近づくか、ということです。

「いき」が一つの明確な意味を持っていることは、誰もが感じていると思います。
また、「いき」という言葉が、日本語としてしっかりと成立していることも事実です。

では、この「いき」という言葉は、世界中のどの言語にも共通して存在するものなのでしょうか?

私はまず、そこから考えてみたいと思います。

もし「いき」という言葉が、日本語にしか存在しないとしたら――
それは、この言葉が私たち日本人特有の感性や生き方を、深く映し出している証拠になるでしょう。

特殊な文化から生まれた意味を、私たちはどう理解すればいいのか。
「いき」の構造を考える前に、この根本的な問いに向き合ってみましょう。


言語というものは、民族と深く結びついています。
言葉の意味と、その民族の生き方・感じ方とは、切っても切れない関係にあるのです。

意味が「正しいかどうか」だけを問う前に、その意味がどう生まれてきたかを考えることが、とても大切だと思います。

私たちに直接与えられているのは「私たち自身」であり、そして「私たち」という共同体の存在、すなわち「民族」です。

民族が本当に大切に思うことは、いつしか「意味」として形になり、言葉という形を取って現れてきます。
だから一つの言葉は、その民族の歴史や生き様の、静かな自己表明なのです。

つまり、言葉は民族が作り出すものではなく、民族の生きた営みそのものが、言葉を生み出しているのです。
これは、部品を組み立てるような機械的な関係ではなく、木が根から葉まで繋がっているような、有機的な関係です。

そのため、一つの民族が持つ特別な言葉には、必ずその民族の体温や息づかい、色合いが染みついています。

自然を表す言葉でさえ、国や土地によって微妙に感じ方が違います。
まして、人間関係や美意識、生き方に関わる言葉は、他言語にぴったり同じものを見つけるのは極めて難しいのです。

「いき」もまた、そうした日本人にしか生まれ得なかった、非常に色彩の濃い言葉の一つだと、私は思います。


例えば、フランス語の esprit(エスプリ)という言葉は、フランス人の気質や歴史全体を映し出したものです。
これに完全に相当する言葉を、他の言語の中から探すのは難しいでしょう。
ドイツ語の Geist も似ていますが、微妙にニュアンスが違います。

同じように、ドイツ語の Sehnsucht(ゼーンスucht)という言葉は、ドイツ民族特有の「切ない憧れ」や「魂の渇望」を表しています。
これは、明るい南への憧れや、満たされない想いといった、ドイツ人の歴史的・気候的な体験から生まれた深い感情です。

「いき」も、これらと同じように、私たち日本人だけが育んできた、特別な感性と美意識を体現した言葉なのです。

この「いき」の構造を、丁寧に解き明かしていくことが、本書の目的です。

(序説 終わり)

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