私たちは、誰にも見られていない時でさえ、なぜ「正しく」あろうとしてしまうのでしょうか。 部屋で一人きりの時ですら、だらけることに罪悪感を抱いたり、生産的でない時間を「無駄」だと切り捨ててしまったりする。
ミシェル・フーコーが提唱した「パノプティコン(一望監視施設)」の概念は、今や物理的な刑務所を超え、私たちの心の中にこそ強固に建設されています。
「権力は、それが及ぼされる人々に課せられる一種の規律の形態をとる。」 ミシェル・フーコー
見えない看守としての「自分」
フーコーは『監獄の誕生』において、権力がどのように身体を訓練(ディシプリン)し、従順な主体を作り上げていくかを分析しました。 かつての権力は、王による「処罰」という可視化された暴力でしたが、近代以降、権力は「規律」として私たちの内面に浸透しました。
パノプティコンの恐ろしさは、実際に監視されているかどうかに関わらず、「常に見られているかもしれない」という意識を囚人に植え付ける点にあります。 やがて囚人は、看守がいなくても自らを監視し、規律を守るようになります。これが「権力の内面化」です。
現代社会において、この「看守」の役割を果たしているのは、他ならぬ私たち自身の理性であり、「理想の自分」という幻想です。 SNSでキラキラした他者を見て、「私もこうあらねばならない」と自らを叱咤するとき、私たちは自らの身体を檻に閉じ込めているのです。
「休息」を革命にする
では、この内面化されたディシプリンから逃れる術はあるのでしょうか。 私は、「休息」の意味を再定義することにその鍵があると考えます。
通常、休息は「次の労働のためにエネルギーを回復する手段」として捉えられがちです。しかし、これでは休息さえも生産性の一部、つまり規律の一部に組み込まれてしまいます。
そうではなく、何の生産性もない、ただ「在る」だけの時間を持つこと。 「すべきこと」リストを破り捨て、身体の声に従って眠ること。 それは、私たちの身体を機能的な道具として扱おうとする社会的な力学に対する、静かで、しかし強烈な「抵抗」なのです。
あなたが今日、何もしないで一日を終えたとしても、それは怠惰ではありません。 それは、内なる看守に対する、高潔なストライキなのです。