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みなさん、こんにちは。あきらです。
日経ウーマンウェブで、「考えてはいけないことリスト」という考え方を読んだとき、 なぜか少し胸に引っかかるものがありました。
頭に浮かんでくるさまざまな思考のうち、 今この瞬間に、自分が本当に扱うべきではないものを、 紙に書き出して「今は考えない」と決める。
そのような考え方を目にしてから、私は自分の頭の使い方について、 少しずつ考え直すようになりました。
そしてふと気づいたのです。
「考えない」という選択そのものが、 かなり強い抵抗になりうる、ということに。
現代を生きる私たちは、ほとんど無意識のうちに、 「何かを考え続けていなければならない」という圧力を受けています。
問題が起これば「もっと考えろ」と言われ、
未来への不安があれば「ちゃんと向き合え」と言われ、
休息を取ろうとすると「まだ考えが足りないのではないか」と自分を責めてしまう。
このような空気は、いつからか当然のものとして、私たちの内側に染み込んでしまっています。
しかし、考えてみれば奇妙なことです。
なぜ私たちは、常に何かを考え続けていなければならないのでしょうか?
なぜ「考えない」という状態に、これほどまでに居心地の悪さを感じるのでしょうか?
ここにこそ、哲学的に問うべき核心があるように思います。
「聖なる空白」ということばがあります。
これは単に何もない状態を指すのではなく、 「何かを詰め込まなくてもいい空間」を、意図的に残しておくことを意味します。
近代以降、私たちは「空白」を、ただの欠如や無意味として扱う傾向を強めてきました。
しかし、本来、空白とは思考を回復させ、存在を静かに肯定するための、 きわめて積極的な余白だったはずです。
「考えてはいけないこと」をあえてリストに書き込む行為は、 この空白を、自分で作り出そうとする、ささやかながらも明確な試みだと言えます。
それは、ただの逃避ではなく、 思考の強制から一時的に身を引くことで、 自分自身をもう一度、取り戻そうとする行為です。
ここで重要なのは、「考えないこと」が、 単に楽をするための手段ではなく、 自分を防衛するための、積極的な選択になりうるという点です。
社会が「常に考え、常に生産的であれ」と求める中で、 あえて思考の速度を落とし、余白を作り出すことは、 ある種の静かな抵抗であり、同時に、 自分自身の存在を肯定するための、倫理的な行為でもあります。
「聖なる空白」を守るということは、 ただ何も考えないことではなく、 「今、考えるべきではないこと」を、 自分で線引きする力を取り戻すことに他なりません。
その線引きができるようになると、 結果として、考えるべきときに集中する力も、 自然と回復してくるものです。
もちろん、「何も考えなくていい」と無責任に言うつもりはありません。
ただ、現代に生きる私たちが直面しているのは、 「考えること」そのものが、 知らず知らずのうちに強制され、 疲弊の原因になっているという事実です。
そのような状況の中で、「考えないこと」を選ぶ勇気は、 単なる休息の技法ではなく、 自分自身の思考と存在を、 もう一度、自分の手で取り戻すための、 哲学的な営みになりうるのではないか。
私は、そう考えています。
あきら
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