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みなさん、こんにちは。あきらです。
前章で、私たちは本居宣長を中心に、江戸時代後期に起きた「日本回帰」の動きを見てきました。
外来の思想から距離を取り、日本の古典や感性の中に、自分の心の空白を守ろうとした試みでした。
今日はそのボールをさらに深くキャッチして、大正から昭和初期にかけて現れたもう一つの「回帰」の形
——京都学派の思想に入っていきましょう。
前章の宣長たちが「日本の古典や言葉に立ち返る」ことを重視したのに対し、京都学派の人々は、さらに一歩踏み込んで「言葉や概念になる前の経験そのもの」に立ち返ろうとしました。 その中心にいたのが、西田幾多郎です。
西田が1911年に出版した『善の研究』は、日本が本格的に近代化を進める中で、「自分たちの経験を、もう一度根底から取り戻す」試みとして現れました。 彼は、西洋哲学が「主観」と「客観」を最初から分けて考えるのに対し、その分かれる前の状態こそが最も根本的な現実だと考えました。 それが「純粋経験」です。
純粋経験とは、ものごとを「私が感じている」「対象がある」と分ける前の、ただそのままに開かれている状態のことです。 例えば、朝起きて外を見た瞬間、まだ「きれいだ」とか「寒い」とか言葉にする前の、光や空気や自分の感覚が溶け合っているような瞬間。 西田は、そこにこそ「実在」の根源があると説きました。
この考えは、当時の知識人にとって、かなりラディカルなものでした。 明治以来、日本は西洋の学問や制度を「取り入れる」ことに必死でした。 その中で西田は、「取り入れる」以前の、自分の生の経験そのものに立ち返ることを提案したのです。
西田の純粋経験は、後に田辺元や和辻哲郎、九鬼周造らによって、それぞれの仕方で展開されていきます。 彼らは「経験そのもの」を出発点にしながら、「人間とは何か」「社会とは何か」「文化とは何か」を問い直しました。 九鬼周造が『「いき」の構造』で描いた繊細な美意識も、こうした流れの中で生まれた、日本独自の感性の分析でした。
重要なのは、彼らが「西洋の思想を否定した」のではないということです。 むしろ、西洋哲学を徹底的に学び、咀嚼した上で、そこから「日本語で考え、日本語で生きる」ための新しい地平を切り開こうとした。 それは、単なる伝統回帰ではなく、外来の思想を自分の経験の中に取り込み直す、創造的な営みでした。
現代の私たちにとって、この試みは何を教えてくれるでしょうか。 今、私たちは常に「意味」や「評価」を求められる社会に生きています。 この経験は役に立つか、正しいか、生産的か——そんなフィルターが、経験の前にかかっている。 西田の純粋経験は、そうしたフィルターをいったん外して、「ただ在ること」に立ち返る可能性を教えてくれます。
スマホを置いて、ただ何も考えずに外を眺める時間。 雨の音を、ただ聞いている瞬間。 そうした「何も起こっていないように見える時間」の中に、実は最も根源的な経験が潜んでいる——京都学派は、そう静かに語りかけているように感じます。
この「純粋経験」への回帰は、決して過去の哲学の話ではありません。 情報過多で疲弊した現代に、「ただ在ること」の重みを取り戻すための、静かな抵抗の形でもあります。
次章では、このボールをさらにキャッチして、戦時から戦後へと思想がどう移り変わっていったのかを、丸山眞男と鶴見俊輔を中心に探っていきます。 皆さんのご感想や思いを、ぜひお聞かせくださいね。
Footnote
¹ 西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫)
² 平山洋『日本思想史講義』第二十三回「大正デモクラシー」ほか関連講義
あきら
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